新米編集長のオカダです。
先日、ウエーブの社員が東日本大震災の被災地の清掃ボランティアに参加しました。被災地の今を少しでもお伝えできればと思い、活動内容について本人より報告させていただきます。
2011年4月22日~28日までの期間、社員2名で、被災地である宮城県のボランティア活動に参加しました。
応募した経緯については、インターネット上でのボランティア募集一覧から、県外からのボランティアを募集されているところを見つけ(多くは県内限定でした)、応募し、社内で有志を集いました。結果、嬉しい事にたくさんの社員から反響があり、今後、私たちのあとにも数人がボランティアに参加することになっています。
私たちが参加したボランティアグループは、本当にたくさんの方が参加されておりました。学生から初老の方まで老若男女、日本全国から来ていて40名以上はいたと思います。女性の参加も目立ちました。
参加するにあたり、お米と寝袋を各自で用意してほしいとのことでしたので、食事は、お米とレトルト食品などを持っていき現地で調理しました。寝床は教会の礼拝堂をお借りして、持って行った寝袋で寝ていました。
食事については、近くのコンビニやスーパーなども営業しており、現地でも十分に調達できそうでした。
被災地までの交通手段ですが、かなり被害の酷い地域でも車が通れるように瓦礫が道端に寄せられており、現地まで自動車で行く事ができました。おそらく交通手段を確保することを優先事項として作業されているのだと思います。
私がまず最初に被災地で感じたことは、津波被害を受けた沿岸部と、それ以外の地域とで被害のギャップが大きいということです。仙台市の内陸部は都会的な街並みが平常通りにあるだけで、震災の跡はまったくと言って良いほどに見受けられませんでした。
しかし沿岸部に移動してある一線を超えると、そこからは一変して異臭が漂い、瓦礫とヘドロ、廃車が散乱しているような酷い光景になります。このギャップを目の当たりにしたことで今回の大津波の破壊力、残酷さを改めて感じました。
ボランティア活動の内容は主に津波で被災した家屋を清掃することで、自前で持っていったマスク、上下レインコート、長靴、ゴム手袋、ゴーグルなどを身につけ作業を行いました。
私が行なった3日目の作業では、アパートの1階から家財とヘドロの撤去を行いました。このお宅はまだほとんど手付かずで、被災したままに近い状態でした。壁には泥の跡が残っており、天井近くまで浸水したことを物語っていました。家の中は黒いヘドロで溢れていて、衣服も家電も家族の写真も何もかもがヘドロに浸かっていました。
家主の方が立ち尽くしている横で家財とヘドロを運び出し、捨てていくというのは気持ちの良い作業ではありません。アルバムらしきものや、子供の絵日記などが出てくると本当に捨てて良いものかと何度か家主さんに確認していましたが、何度目かに「見てしまうと何も捨てられなくなるから、もう確認せずに全て捨てて欲しい」と言われました。
慣れ親しんだ大切な家具や思い出の品を全て捨ててしまわなくてはならないという悲しみは、私にとって現実味がなさ過ぎて想像し難いものでしたが、非常に心苦しく思いました。滋賀県での日常に戻った今も、主な活動地であった石巻市の酷い光景が目に焼き付いています。
それでも復興への息吹は確かに感じられました。私たちが被災地に滞在している間にも近所のコンビニで物が買えるようになったり、少ないメニューでなんとか営業を再開した中華料理店、自衛隊による仮設銭湯などが被災地域に活気を生み出していました。
何年後になるのか分かりませんが、美しい元の姿に復興した石巻市をもう一度訪れてみたいと強く思いました。
以上、ボランティアに参加した社員からの報告でした。